TO HEART SIDE STORY
"The Winner have not been in this World"
Episode 3:急速なる進化−Emergent Evolution−
微かに傾きかけた太陽から、綾香は自分の腕時計に視線を落とした。
「・・・遅いわね」
綾香、坂下、葵、浩之の4人は駅で待ち合わせてから清瀬を迎えに行くという約束だった。にもかかわらず今だ葵と浩之は姿を見せない。
「何をしているんだ。あいつらは!」
不機嫌そうに坂下が言う。
「そうよね・・・浩之はともかく、葵が遅れるなんて事はなかったわね」
腕を組み、綾香が考える。
「好恵、あんた何か心当たり無い?」
「あるわけ・・・・」
ない、と言おうとしたとき、不意に昼間浩之と会ったことを思い出す。
「だが、なんの関係が」
「何よ、心当たりあるならはっきり言いなさいよ」
言葉を逡巡する坂下に綾香が言葉を促す。
「・・・那智のことだ」
「那智・・・ああそう言えば、あの子の命日って、今日じゃないの!?」
思い出したように綾香がぽんと手を叩く。
「ひょっとしたらあいつの墓に行っているのかもしれない・・・」
微かに表情を曇らせる坂下。いままで忙しさや今日のことですっかり失念していたことに自責の念を感じていた。
「・・・そうだ、確か浩之、携帯持ってたわね」
言いながら綾香が自分の携帯電話を取り出し、慣れた手つきで記録されていた浩之の番号に繋いだ。
−プルルルル・・・・プルルルル・・・−
「あ、浩之、今何処よ?」
やけに出るのが遅かった浩之に多少苛立ったような声で訊ねる綾香。
『綾香か・・・悪い、ちょっと行けそうもない』
気のせいだろうか?浩之の声には何か張りがない。というよりむしろ何か疲れ果てたような、というよりは重病人のような声がする。
「浩之?ちょっと、何があったの?」
その様子に尋常ならざるものを感じた綾香が、慌てて訊ねる。
『・・・あなたには関係ない』
と、不意に聞き慣れたい声がする。
「?」
『止めて!那智ちゃん!』
疑問の色を見せる綾香に、今度は葵の声が届いた。そして葵の言葉にすぐに思い当たる。那智?那智だって!?
「ちょっと!一体どうしたの!ああ・・・私が直接そっちに行くから!今何処!?」
その後二言三言の会話をしたあと、綾香が電源を切る。
「・・・どうした?」
流石にただごとでは無いと坂下は察していた。
「御免、ちょっとあの子たちの所へ行ってくる。師匠のことはお願いね」
と言って、手近なタクシーに飛び込む綾香。
「おい?綾香っ!?」
「浩之の所にいるから!師匠と合流したら電話して!」
言うが早いか、綾香を乗せたタクシーが疾走し始めた。
*
遠い。
遥か遠い日の記憶だった。
雲一つないぬけるような青空。
大地を光に満たす真夏の太陽。
お気に入りの麦わら帽子をかぶり、母特製の弁当を入れたバスケットを持って。
自転車を漕ぎ、親友と緑の世界を駆け抜けたあの日。
・・・二度と戻ることのない日だった
「すっごーい・・・これ、全部そうなの?」
道ばたに腰掛け、バスケットの中身を広げながら葵が那智に尋ねた。あの日、葵は那智に誘われてピクニックに来ていたのだった。那智が見せたいものがあるからと。
「うん。お父さんが研究している作物・・・ねえ、何か気づかない?」
微かに悪戯っぽい笑みをこぼしながら、那智が言う。
「え・・・?うーん」
ぐるりと辺り一面の畑を見渡しながら、葵が思案する。
「・・・トマトみたいな植物と、稲みたいな植物のふたつがあるね」
遠くから見たときは単なる緑一色でも、こうして近づいてみると2種類の作物が植えられていることがわかった。一つはトマトやジャガイモに代表される茄子科の植物に似ており、もう一つは稲のような穀物を実らせる植物に似ていた。
「うん。正解!」
満足げに那智が頷いた。
「那智ちゃんのお父さんって、来栖川のアグリビジネス部門に勤めてたよね、確か?」
ということはここにあるのはその『研究成果』ということなのだろう。見せたかったものというのはこれだったわけだ。
「まあね、でも一つだけ違うよ。ここにあるのは一種類の植物だけ」
二つの畑に交互に視線を移す那智。
「え?どういうこと?」
「これはね、今まで自然界にしなかった植物・・・『C.D.N.A.』なのよ」
遥か遠くの山の稜線に瞳を向け、那智は言った。
*
「う・・・くっ」
冷たい土の感触で、葵は目を覚ました。ぼやけている目が徐々に焦点を結ぶにつれて、少しずつ自分が今いる場所が認識できてくる。
「ここは・・・?」
辺りは薄暗く、何処を見渡しても一面木々のみが視界に入る。上を見上げれば無数に広がった木々の枝が太陽を覆い隠し、木漏れ日のみがこの場に光を与えていた。何故自分はこんな所にいるのだろう?必死で記憶を辿り、そして1人の人影が目に入った。
「先輩!?」
倒れている浩之に駆け寄り、浩之の体を揺する。
「先輩、先輩!」
木の枝にでも引っかけたのかあちこちにかすり傷があった。見た感じはそれほど傷は深くはないが、頭を打っていたりしたら大事だった。
「・・・う・・・ここは?」
だが、浩之はうっすらと目を開け、何とか意識を取り戻したようだった。
「先輩!私が解りますか!?」
「葵・・・ちゃん?・・・ここは一体?」
上体を起こしながら浩之が頭を振る。
「解りません・・・ただ、あの崖の下であることは間違いないと思います」
葵の視線の先には大きな岩肌が続いていた。おそらくあの上がさっきまでいた墓地なのだろう。
「助けてくれたのか・・・?」
「多分、そうだと思います」
あのまま戦っていたらとても勝ち目はなかっただろう。そのために那智は自分たちを助けるためにあのような行動に出たのだと2人は理解できた。最もかなり強引な方法ではあったわけだが。
「・・・にしても、よく生きてたもんだ」
体のあちこちが痛かったが、立てないほどではなかった。何とか立ち上がり、歩きだそうとしたときのことである。
「2人とも、無事のようね」
木の陰から那智が現れる。やはりこちらも服の所々が破け、全身擦り傷だらけだった。
「那智!?」
「那智ちゃん!?」
浩之と葵が那智の側に駆け寄る。
「・・・巻き込むつもりはなかった」
しかし那智はただ拳を握りしめ、項垂れるだけだった。
「逃げようぜ」
沈黙の中、唐突に浩之が言う。
「先輩?」
「さっきの連中がまたこないとも限らないし、俺の家ならとりあえずは安全だ」
「・・・何故そう言いきれる?」
怪訝に浩之を見上げる那智。
「あんたは逃げ場が無いだろう?それに葵ちゃんの事はさっきの連中は知っているはずだ。となれば俺の所が安全なんじゃないか?」
言われてラケシスが「運がないと言った・・・その女と接触することがなければ、格闘の世界でそれなりに名を残し、相応の幸福も手に入れられたろうに」と言っていたことを思い出す。つまりラケシスは葵の事を知っているというわけだった。にもかかわらず浩之に関しては何も言わなかった。ならば浩之はノーチェックと考えられる。
「俺の所は誰もいない。心配するな」
そう言って那智の肩にぽんと手を置く浩之。ふと葵をみれば「そうした方がいいよ」と目で語っていた。
「・・・解った。ありがとう」
そう言って那智はぺこりと頭を下げた。
*
−ちゃーんちゃんちゃんちゃーんちゃちゃーん・・・−
何とか森を抜け出した矢先、浩之の胸元からメロディが流れ出した。特に着メロにこだわらない浩之はデフォルトで入っていたドヴォルザークの「新世界第4楽章」を使っていた。結構派手な始まり方をするので、着メロにはぴったりだと思ったからだった。
「綾香か・・・そういえばもう時間はとっくにすぎたな」
ウィンドウに表示された綾香の名前を見ながら約束のことを思い出した。
『あ、浩之、今何処よ?』
待たされたせいか少し怒り気味の綾香の声が聞こえる。さっきまで命の危機に晒されていた浩之には、何故か綾香の口調がほっとしたものに感じられた。
「綾香か・・・悪い、ちょっと行けそうもない」
疲れのせいか声に張りが出ない。まあ、当たり前かと浩之は思う。
『浩之?ちょっと、何があったの?』
恐るべき洞察力で綾香が訊いてくる。
「・・・あなたには関係ない」
「おいっ!」
那智が電話をひったくり答えた。
「止めて!那智ちゃん!」
葵が押さえに入った。那智が落とした携帯を浩之が拾う。
『ちょっと!一体どうしたの!ああ・・・私が直接そっちに行くから!今何処!?』
綾香の声が響く。
「とりあえず家まで来てくれ。話はそっからだ」
『わかった。じゃあ浩之の家で』
そう言って浩之は電話を切る。
「・・・これ以上巻き込む人を増やすの?」
那智が恨めしそうな視線を浩之に向けた。心底余計なことをしてくれたと言いたげである。
「じゃあ那智ちゃんは1人でどうにかする気なの?」
そんな那智を哀れむように葵が言う。
「葵?」
気勢をそがれたような表情を見せる那智。更に葵は続ける。
「私達友達なんだよ!?今更見捨てるつもりなら最初から友達になったりなんかしない!それは綾香さんだって同じだよ!?」
「・・・・・・」
いつにない剣幕の葵に那智は言葉を失う。
「・・・1人で処理しきれない問題があるなら、誰かの手を借りるのも一つの手だと思うぞ」
浩之が続けた。
暫し黙っていた那智だったが、やがて
「解ったわ・・・」
と呟き、浩之の家に向けて歩き出した。
*
浩之の家の近くについたときだった。
「浩之ちゃん!?・・・に昨日の子?」
帰った一同を出迎えたのはあかりだった。全身ぼろぼろの浩之、葵。さらに昨日自分を襲った那智までもが一緒なのだ。驚くのも無理からぬ事だった。
「話は後だ。とりあえず家に行くぞ」
そしてあかりを加えた一同は漸く浩之の家に辿り着いた。
「・・・まあ、だいたいこんな所だ」
浩之が怪我の治療をあかりにしてもらいながらあかりと綾香に今までの事情を説明した。
「その子は葵ちゃんの友達の那智ちゃん。で、那智ちゃんは死んだことになっていたけど生きていて、しかも追われている・・・ってこと?」
あかりの問いに浩之が頷いた。
「・・・生きてたのね。本当に」
綾香はどうしたらいいか解らないといった表情を浮かべながら那智を見つめていた。
「ごめんなさい・・・気がつかなかった。でも教えて。一体何があったの?」
「・・・・・・」
会っていたのに気がつくことができなかった綾香が謝りながらも必死で問う。にもかかわらず那智は黙ったまま床を見つめていた。
「那智ちゃん・・・?」
葵が心配げにのぞき込む。
「・・・葵」
そうして漸く那智が顔を上げた。
「あなたは・・・いいえ、あなた達はいつもそう。綾香さん、あなたも好恵さんも・・・いつも他人のことを気にかけてばっかり・・・」
乾いた笑みをこぼしながら那智は続ける。
「覚えている?私と葵が町中で変な男達に絡まれて、負けそうになったこと?」
「覚えてるよ。でも通りかかった綾香さんと好恵さんが助けてくれて、そのあとみんなで無謀な喧嘩をするなって師匠に怒られたこともね」
微笑みながら葵が答えた。
「綾香の暴れん坊は昔からか・・・うぐっ!」
無言で浩之の腹に肘を入れ、綾香が言う。
「懐かしいわね。ま、私も仲間は助けるって考えだから」
そう言って那智の肩に手を置く。
「そう。だから、今更気にする必要なんて無いよ?見方を変えたら私達にとってはいつもの事なんだし、ね?」
今度は満面の笑みをたたえる葵。
「・・・ありがとう」
那智の瞳が微かに潤んだように見えたのは、決して気のせいではなかったろう。
*
そのころ、駅前では・・・
「おお、久しぶりだな好恵」
「し、師匠」
ただ1人その場所に取り残されていた坂下の後ろからいきなり清瀬が声をかけた。真後ろに近づくまで坂下に気取られずにいるとは、流石あの4人の師匠である。
「何じゃ?お主1人か?」
「い・・・いえそれが・・・」
言いよどむ坂下。礼を重んじる彼女は、師匠に対していいわけなどできるはずもなかった。
「・・・何の理由もないわけが無かろうが。話してみい」
清瀬はそんな坂下の性格を熟知しているのか、優しく諭す。
「は、はい・・・実は」
「・・・那智だと!?」
坂下の口から那智の名が出た瞬間、清瀬の表情が厳しくなる。
「ど、どうかなさいましたか?」
慌てる坂下を更に厳しい目で見つめ、清瀬が問う。
「何処にいる?あやつはここに来ておるのか?」
「は、はい・・・藤田の家にいるとか?」
それを聞き、清瀬が近くのタクシーを呼び止めた。
「行くぞ!手遅れになる前に!」
「は、はい?」
清瀬が坂下の手を掴み、そのままタクシーに乗せる。
「急がねば・・・」
呟く清瀬の顔は間違いなく『戦士』の顔だった。
*
「・・・那智、あなたが何か変なトラブルに巻き込まれていることは私にも解るわ。それに、ひょっとしたら来栖川(うち)とも絡んでるんでしょう?」
沈痛な面もちで綾香が問う。
「どういうことだ?綾香?」
「2年前の事よ。那智のご両親が勤めていたメルボルン(オーストラリアの都市)の近くにあった研究所で大規模な爆発事故があったの」
一同を見回しながら綾香が言う。暗にここにいる人間はこの件にもう関わってしまい引き返せないところに来ていると言っているかのようだった。
「・・・そう言えば、新聞で読んだかも」
記憶の糸をたぐるようにあかりが言う。
「その研究所、例のアグリビジネスのプランテーションか?」
浩之は那智の両親が来栖川のアグリビジネス部門に在籍していたという話を葵から聞いていた事を思い出す。
「・・・そうよ。何かおかしいと思わない?」
綾香が訊ね返す。
「・・・とは言っても・・・え、アグリビジネス?」
葵が思い出したように言う。
「どういうこと?」
あかりが訊ねる。
「アグリビジネスって要するに植物の研究なんです。前に那智ちゃんと一緒に研究所の見学に行ったんですけど、そんな爆発するような研究なんて・・・?」
葵が答えた。以前行った所にはそんな大規模な爆発を起こすような施設なんて心当たりがなかった。
「・・・公式には非常用の自家発電装置の暴走事故っていうことになっているわ」
そこで今まで黙っていた那智が漸く口を開く。
「でも結果はそんなレベルじゃないわ。施設は研究棟が全壊、職員の多数が死亡、火災の影響で栽培されていた植物の大半が消滅・・・いくら何でもおかしいと思わない?」
「・・・誰かが意図的にテロ行為を?」
浩之の言葉に葵とあかりが息をのむ。
「・・・私もその場にいたけど、そのとき偶然地下の水路に落ち込んで助かったの。爆発の影響で死体は誰が誰だか解らなかったから、死んだことになったんでしょうね」
まるで他人事のように那智は言う。
「そして流され続けて私は地上に出た。正直死ぬかと思ったけど、助けてくれた人が居たのよ」
「誰に?」
葵が訊ねる。
「師匠よ。私の所に遊びに来る事になっていたの。その途中で私を拾ってくれた。そして私は師匠に助けられて九死に一生を得た」
「師匠が?」
綾香が驚きの声をあげる。
「そう・・・私を表向き死んだままにしたのも師匠の判断。万が一の事を考えて」
「万が一・・・ってことは?」
浩之が言うよりも早く那智が続ける。
「・・・そして師匠はあの事件について独自に調べてくれた。結果は浩之?でいいわね。あなたの言ったとおり、ラケシスの手による爆破工作だったわ」
「・・・そんな・・・一体何のために?」
あかりが驚きに目を丸くする。
「C.D.N.A.か?」
浩之の言葉に那智が頷く。
「それって昨日も言っていたけど・・・一体何なの?」
昨日那智はC.D.N.A.を渡さないと言っていた。ということはそれが鍵になることは間違いない。
「それをこれから話すわ・・・それが一番大事なことだから」
*
「これを見て」
那智が背中のリュックを下ろし、円筒形の透明なカプセルに包まれた一つの球根のようなものを見せた。
「・・・やっぱり、これが元だったんだね」
葵が懐かしいような、或いは憎らしいような様々な感情が入り交じった表情でそれを見つめた。
「これが、そうなんだな?」
やはり葵は知っていたのか・・・と思いながらも浩之が言う。
「正確には結果というべきね。C.D.N.A.っていうのはCROSS.D.N.A.・・・つまり『交わったDNA』ということ。私の両親が研究していたのはまさにこれだった」
そう言いながら那智は更に別のカプセルを取り出す。一つには米のような穀物が、もう一つにはトマトのような実が凍結保存されていた。
「これは?」
あかりが訊ねた。
「この球根が実らせるものよ」
「・・・どういうこと?」
綾香が交互にカプセルを見つめながら問う。穀物と野菜を同時に実らせる植物など聞いたことがない。否、そんな植物などあるわけがない。
「これは耕作地を選ばないのよ。乾燥地域で育てれば穀物を、水分が潤沢な土地では周りからの水分を吸収して実をつける・・・そういうことよ」
「つまり、砂漠でもジャングルでも育てられる・・・?」
あかりの問いに那智が頷いた。
「・・・どういう原理なんだ?」
今だ目の前のものが信じられない浩之が訊ねる。
「水をやらないでも成長する植物って聞いたことがない?基本的にはあれと同じよ」
「あ、そういえば家にあるよ」
あかりが言う。以前あかりの母が知り合いからもらったという代物で、ガラスの鉢の中に入れておいただけなのに勝手に芽が生えて、花をつけるというものだった。
「乾燥地帯では本来の水分を用いて成長し、穀物のような比較的水分の少ない実をつける。水分があるところでは水分を吸収し、トマトのような実を結ぶ・・・普通の植物とさっきあなたが言った植物の遺伝子の両方の特性をクロスさせたもの、それがこれなのよ」
「・・・なるほど、これなら確かに奪い合いになるわね」
綾香が厳しい目つきでカプセルを見つめる。
「どういうことだ?そりゃあ確かにすごいと思うが」
浩之が訊ねる。
「甘いわね。いい?これは耕作地を選ばない。例えば砂漠の中でも育つのよ。これが世界の貧困地帯で大量生産されたらどうなる?」
「・・・餓死者も減る、少なくとも貧困から脱する鍵になる?」
「そう、いいえそれだけじゃないわ。貧困地帯で大量に育てれば輸出用産品になる。そうなったら世界の経済地図が一変し、戦争だって激減するわ」
綾香の言うことは最もだった。確かに経済的な安定化を成し得れば戦争も終結させやすい。
「・・・以前レミィが言っていたけど、中国には『腹満ちて民背かず』っていう諺があるんだって」
あかりが呟いた。
「全ての人が勝利と福音を得られる・・・・・・まさに『宝物』よ」
カプセルを手にし、綾香が言った。
「今手元にあるのは、家にあったこれだけ。他のは2年前に全て研究データごと焼き捨てられたから」
忌々しげに那智が言った。
*
そのころ坂下と清瀬は・・・
「ところで好恵、その藤田浩之とかいう男の家は何処だ?」
「え?」
言われて坂下は言葉に詰まる。考えてみたら浩之の家に行ったことなど一度もなかった。葵や綾香はよく遊びに行っているようだったが。
「・・・知らぬのか?」
「申し訳ありません!」
シートにこすりつけるように頭を垂れる坂下に軽く嘆息してから
「すまぬ、墓地の方に頼む」
と運転手に伝えた。
「師範?」
「綾香や葵はそこにいたのだろう?手がかりくらいはつかめるかもしれぬでな」
そう言って清瀬は再び厳しい顔になる。
「・・・手遅れにならねばよいがな・・・」
*
再び話は葵達に戻る・・・
「で、那智ちゃんの目的って一体何なの?」
葵が訊ねた。
「・・・これをアグリビジネス本部に渡すこと」
決意をたたえた厳しい眼差しを一同に向ける。
「父の意志を継ぐ・・・ってことか」
浩之の言葉に那智は頷く。
「だったら急ぎましょう。来栖川バイオの責任者はあたしも知ってるから。セバスにでも連絡してとっととかたをつけましょう」
そう言って綾香が携帯を取り出す。
「・・・・・・」
数回のコール音とともに、やがて声が聞こえ始める。しかしその声は聞き慣れた老紳士(格闘家)の声ではなかった。
−おかけになった電話は、只今電波の繋がらない所にいるか・・・−
「・・・充電中かな?」
綾香が首を振る。
「まあいいさ。今日は疲れたし、明日になったらみんなで行こうぜ?」
浩之が窓の外を見上げると、もう日は落ちて辺りは夜の帳が落ちていた。テレビの下のビデオデッキの時計は、夜の9時を過ぎたことを示していた。
「・・・余計な迷惑はかけたくない」
那智が浩之に言う。
「かまわねえよ。どうせ一人暮らしだし、部屋は結構空いているからな」
「そうそう。夜中に変なことするようなら私と葵でボコにするからね」
「・・・綾香、お前人のことなんだと思っている・・・?」
「あら、やる気だったの浩之?あたしは例の連中の話してたんだけど?」
小悪魔の笑みを浮かべて綾香が言う。
「・・・浩之ちゃん。それはよくないよ」
あかりがその尻馬に乗るように言う。
「おい待てっ!」
「先輩・・・不潔ですよ」
葵もジト目で浩之を見つめた。
「だからお前らは人の話を聞けーっ!!」
浩之の絶叫が響いた。
*
結局一同はそのまま浩之の家に泊まることになった。このまま下手に動けば危険だという事で全員の意見が一致したからだった。
その晩の事だった。
−コンコン−
「開いてるぞ」
浩之の部屋の扉を叩く音が聞こえた。こうした律儀な入り方をするのはあかりか葵くらいだろうな、と思い浩之が答える。
「・・・おじゃまします」
予想通りに、やや遠慮がちに葵が姿を見せる。
「ああ、どうした?」
読みかけの雑誌を置きながら浩之が答えた。
「ちょっと、話がしたかったんです」
俯いていた顔を上げ、葵は言った。
「話?ああ、いいぜ」
浩之に促され、ベッドの上に葵が腰掛けた。風呂上がりなのか微かなシャンプーの香りが浩之の部屋に広がった。暫し俯いていた葵だったが、やがて顔を上げて浩之を見る。まっすぐな蒼い瞳が浩之を映し、そして頭を下げた。
「・・・まずはごめんなさい!私が誘ったばっかりにこんな事に巻き込んで」
心底申し訳なさそうに葵は言った。
「おいおい、別に俺は大して気にしちゃいないさ。だいたい俺だってそれ以前から巻き込まれていたわけだし」
昨日のあかりとの一件を思い出しながら浩之が言う。
「・・・・・・」
「ま、気にするなって。明日になればバイオの人と連絡つけて、あの子は警察にでもかくまってもらえるさ」
やや不安げに俯く葵を元気づけるように浩之が言う。
「・・・そう、ですよね」
「ああ」
浩之の笑顔と言葉に励まされ、葵が漸く顔を上げた。
「そういえば、あの子はどうしたんだ?」
ふと思い出し、那智のことを訪ねる。
「お風呂から上がったらすぐに寝ちゃいました。多分今までの緊張の糸が切れたんだと思います」
ふふ、と笑みを湛えて葵が答えた。
「そっか。ま、たった一人で世界の半分を横断してきたんだから無理もないか」
那智の旅路を考え、それも無理からぬ事と思う浩之。国籍も戸籍も抹消された身でオーストラリアから日本までの旅路は想像を絶する苦難に満ちた旅だったろう。
「・・・無事に、終わりますよね」
「そうしてみせるさ。このまま俺達がやられたら、それこそあの子の両親も、いやC.D.N.A.の開発に携わった人達も浮かばれない。それにやられてやるつもりもないさ。勝つのは俺達さ」
不安げな言葉を吐く葵を勇気づけるように浩之が言った。
「勝つのは・・・ですか」
葵が視線を天井に向け、遠くを見つめるような瞳で呟く。
「どうした?葵ちゃん」
「この事件に勝者なんているのかな・・・と思って」
そうして浩之を見つめる葵。不思議がる浩之を後目に、更に葵は続けた。
「C.D.N.A.をつくっても、それの完成を見ることなく死んでしまった那智ちゃんのご両親・・・それを守るために2年の時間をずっと苦しみ続けた那智ちゃん。たとえ私達がC.D.N.A.を世に送り出しても、それでみんな救われるんでしょうか?」
すがるような視線を葵は浩之に向ける。
「葵ちゃん・・・」
しばらく黙っていた浩之だったが、やがて重々しく口を開く。
「知っているか?何かを成し得るということは、決して辿り着いた1人だけの結果じゃないって事を?」
「?」
疑問の色を浮かべながらも、葵は浩之の言葉を待つ。
「多くの人間が、同じような夢を抱きながらそれに向かって努力する。だが最後までたどり着ける奴は少ない。なぜだか解るか?」
「えーと・・・自分だけが辿り着こうとして争うからですか?」
その答えに浩之が頷く。
「そうさ。エクストリームの大会だって頂点に立つのは、或いは格闘家としてその名を轟かせるのはほんの一握りだ。挙げればまだあるさ、ヒトの意志っていうのは身勝手だからな、誰かが何かをしようとしたら、それはひとえに誰かの犠牲の上に成り立つことに他ならない」
カーテンの向こうに広がる景色を見つめながら、浩之は言う。
「そんな・・・それじゃあ先輩は那智ちゃんやご両親のことはしょうがないって仰るんですか!?」
語気を荒げ、葵が言う。
「そうじゃないさ。歴史の時間に徳川幕府の制定は学んだよね」
「え・・・?ええ」
振り向いた浩之の意外な言葉に、葵は気勢を削がれてしまう。
「あれは一応徳川の勝利と言うことになっているが、果たしてそれはどうかな?」
「・・・・・・?」
言葉の意図が読めない葵が顔に疑問符を浮かべ、上目遣いに浩之を見る。
「あの時代は誰しもが天下人を夢見て、群雄割拠していた。有名所をあげれば織田信長や豊臣秀吉が妥当な線かな?だが誰の願いも一緒だった。混乱期にあったこの国を平定するということにおいてはね」
「・・・・・・はい」
真意は読めないが言っていることはよく解る。だから葵は頷く。
「結果として徳川が勝利したが、果たしてそれは最後に勝者となった徳川家康だけの功績だろうか?」
「・・・負けた人達も、その礎になった。だから彼等も『成し得た』人の1人である。そう仰りたいんですか?」
「そういうことさ。以前読んだ小説にこんな一節があった。『人は実現しうることを夢見るという。だがその実現がどのような形になるかは誰にもわからない』ってね。確かに『勝った』と言える場所にたどり着ける人は少ない。ひょっとしたらそれは勝利の場所じゃあないかも知れない。でも辿り着いたことは事実なんだ。負けて倒れたとしてもその意志を継ぐ者は必ず現れる。それは自分の仲間かも知れないし、さっきのたとえのように皮肉だが敵だった者かもしれない。だけどいつかは辿り着くんだ。望んだ場所にね」
浩之の黒い瞳が葵の蒼の瞳を映し、諭すように浩之は言った。
「みんなが同じような夢を抱きながらそれぞれに失敗したり敗北したりしている・・・でもそれは決して無駄なことなんかじゃない。いや、無駄かなんかなんてわからない。だから自分のできることを、正しいことを行いなさい・・・師匠がよくそう言ってました」
一言一句噛みしめるように葵が言う。
「ふふ・・・先輩って、なんか師匠と似てます」
そして葵は笑って言う。
「そうか?俺は・・・いや、そういえば綾香によく爺臭いといわれるけどな」
苦笑する浩之。
「でも、ありがとうございます。なんていうか、胸の支えがとれたような気がします」
威勢良く頭を下げ、今度は妙な言い方だがしっかりと微笑んでみせる。
「明日は早いぜ。早く寝ておけ」
「はい」
そう言って葵は扉から出ていこうとする。
「あ、そうだ」
「どうした?」
訊ねた浩之に、葵は含み笑いとともに答える。
「やっぱり先輩似てますよ。師匠に」
「・・・そんなに爺臭いか、あかりの婆臭さがうつったかな?」
「だめですよ。人のせいにしちゃ。それじゃ、お休みなさい」
そう言って葵が扉を閉める。
「人のせい・・・ね」
そろそろ寝ようかと電気のスイッチに手を伸ばす浩之。ベッドの上に寝転がり、誰にともなく呟いた。
「辿り着く・・・か」
その言葉の意味を自問しながら、浩之は眠りの底へと落ちていった・・・
TO BE CONTINUED....
次回予告
かつて1人の男がいた。
彼は私の友人の父であり、植物を操る力があった。
彼は荒地を肥沃な農場へと変えるために、その英知を結集させてC.D.N.A.を生み出した。
だがその力は愚かな権力闘争の道具と化す。
作りだした者の意志とは裏腹に。
格闘技は己を守る力という。
少なくとも私、坂下好恵の師はそう仰った。
そしてこの拳を再びそのために使うことになる。
望まない闘争から生き残るために。
次回 TO HEART SIDE STORY "The Winner have not been in this World"
Episode 4:荒野の記憶 -Memory of Wilderness-
C.D.N.A.を巡る、決戦が始まる・・・
感想はs7097658@ipc.akita-u.ac.jpまで