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<幸せになろうね>

 …私は突然目を覚ました。
 …いよいよ明日か…
 まだ早朝と言うよりは真夜中といったほうがいい時間かも知れない。
 眠れない…緊張してるのかなぁ…あれだけ楽しみにしていたはずなのに、何故か目が冴えてしまう。
 気がつくと私は家を出ていた。まだ辺りは暗く、街灯だけが私の周りを照らしている。もう6月とはいえまだまだ夜の風は冷たい。空を見上げれば月が雲の隙間からかすかに見えている。私はあてもなく歩き続けた。
 気がつけば、学校の前に来ていた。私と先輩が初めて出会った学校。確かあのときは私が同好会の勧誘をしていたんだっけ。他の人達があきれていなくなっていく中、ただ一人私の話を聞いていてくれた先輩。嬉しくってついつい自分の世界に入り込んだりもしちゃったっけ。
 中庭に入ってみる。あのときと変わらない風景がそこには残っていた。私が先輩にお弁当を作ってきてあげるって約束したこともあったっけ。最初は全然上手くなかったけど、今では結構上手になったと思う。上手になったかは分からなくても先輩は美味しいって言ってくれる。それで十分かな。
 …そのまま私は裏の神社へと向かってみた。まだ静かで、この辺りまで来ると足下を照らし出すのは月明かりだけになっている。だいぶたったようでまだまだ夜明けは遠いみたいだ。
 そこには昔と同じ光景が残っていた。ちょっと古ぼけた建物。練習でだいぶ削られてしまった木の幹。境内の下にはあの頃使っていたサンドバッグもまだそのまま残っていた。
 境内に腰掛けていると、自然とあの頃のことが思い出されてくる。初めてここで練習をした日のこと。先輩が初めて練習を見に来てくれた日のこと。好恵さんとの決戦に向けての日々。緊張しきっていた私を励ましてくれた先輩。エクストリームに向けての練習、そして…。
「…葵ちゃん?」
 私の名前を呼ぶ声にふと振り返る。そこには私が今もっとも会いたかった人がいた。
「…先輩? なんでここに?」
「…多分、葵ちゃんと同じだと思うよ。いよいよ明日だと思うとなんか緊張しちゃって」
 そういいつつ先輩は私の隣に腰掛けた。そのまま自然と先輩の腕が私の肩にまわされる。私も抵抗することなく先輩に身体を預けた。いつも通りの先輩の感触。自然と緊張がほぐれて落ち着いた気持ちになる。先輩はいつもいつも私を支えて励ましてくれた。
「先輩はいつもいつも優しいですね。私のして欲しいことがちゃんと分かってる。あの頃からずうっと変わりませんね」
「葵ちゃんは…少なくとも見た目は変わっちゃったね」
 そういうと先輩は私の髪をなで始めた。男の子のようだったあの頃とは違う、長くて女の子っぽい髪。身長だってちょっとは伸びたし、身体だって女の子っぽくなったと思う。でも、でも…。
「でも、葵ちゃんは葵ちゃんだよ。俺が大好きな葵ちゃんはそのままだね」
 …私が言おうとしたより早く、先輩はそう言って、私の頬に軽く口づけをした。…なんでこの人は私が言って欲しいと思うことが分かるんだろう…いつもいつも私は思わずにはいられなかった。そんなことを考えていたら、なんか不思議な顔をしていたらしく、
「…なんか怖いよ、葵ちゃん」
「えっ? そ、そんなことないですよ。ただ…」
「ただ?」
「まだまだ先輩にはかなわないなぁと思って。だって私が言って欲しいことなんかお見通しって感じですもの」
「そりゃあ努力してますもの。努力すりゃなんとかなるもんだって」
 そう言った途端、先輩の顔が急に真面目になった。滅多に見せない先輩の表情。この間見たのは…この左手の薬指にあるこれをもらったときだっけ…。
「…もっともっと努力して…一緒に幸せになろうね、葵ちゃん。これからもずっと…」
「…そうですね…もっともっと先輩のこと好きになれるように、先輩に私のことをもっと好きになってもらえるように…」
 そこまでいったとき、先輩がふと思い出したように、
「…いい加減『先輩』はやめてくれないかなぁ。もう明日なのに…」
「え? ご、ごめんなさい! すっかり癖になっちゃって…わかりました、せんぱ…」
「…葵ちゃん?」
 …また言ってるし…慌てて私は言い直した。あまりに小さくて先輩には聞こえなかったかも知れないけど…。
「……わかりました、…さん…幸せになりましょうね」

 

 <終>


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