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「隔絶の祝詞」







奇妙。

そんな言葉がぴったりの空気。

興奮。期待。羨望。不安。緊張。侮り。萎縮。

こんな狭い建物の中に、さまざまな人間の心中が交じり合い、溶け合いながら漂っている。

それらはゆっくりとだが確実に膨張し続け、かといって溢れ出すことがない。

時間が経てば経つほど、濃度が増していくだけだ。

息が詰まる。




厭。

素直にそう思った。それ以外の言葉が浮かんでこない。

この、粘着質の空気がいつもいつも邪魔をする。

腕に纏わり、足に絡み付く。

コールタールの中を歩いたらきっとこんな感じなのだろう。

練習の時の昂揚感が微塵も得られないのは、この空気のせいなのだとつくづく思う。

…自分のせいだということは解っているつもりではあるのだが。


「…ただ今より、午後の部第一試合を始めます。両選手、入場してください」


スピーカーから流れるアナウンスの女性の声が、ひどくぶっきらぼうに聞こえる。

回りつづける時計の秒針が、とても無情に思えてくる。

動き出さない両足が、無性に情けなくなる。



殊更のようにゆっくりと立ちあがり、半ば義務感でドアを開ける。

ノブがやけに重かった。



廊下。あの厭な空気が更に濃い。

試合会場につながっているあの扉。あそこから滲み出ているのだろう。

自分を取り巻く環境が、不条理なものに思えて仕方がなかった。



誰も自分に期待などしていないのだろうとは思う。

でも、「もし」されていたら。

直接的に相手の「負け」を望む選手などいないのだろうとは思う。

でも、「もし」望まれていたら。

真相がどうあれ、「私が」そう感じてしまうのであれば、

それは「私にとって」紛れも無い真実だと思う。

勝てと望まれて、勝つと言えるほどの自信などない。

負けろと思われて、手を抜くことなど出来ない。

自分の出す結果は、万人を満足させられるものではない。

必ず、どちらかが「裏切られる」ことになるのだ。

解ってはいる。

でもそれが、堪らなく厭だった。

自分に対する、明確には肯定も否定も出来ない曖昧な「期待」の錯覚。

またそれを「裏切る」に対する無条件的な嫌悪。

それが…この厭な空気の正体なのだろう。




綺麗事。偽善。そう言った類のものとして分類される感情なのかもしれない。

しかし何と言われても、「不誠実」なのは馴染めない。

過程がどうあれ、結果として他人の期待を裏切ってしまうのは、

嫌。



だから。



顔を上げる。薄暗い廊下。

逆光の中に。「あの人」が立っている。



万人に誠実になれないのであれば、せめて。

この人だけは。裏切らないようにしたい。



だから、言ってもらう。

この空気を振りほどくために。

私が、自分を誤魔化さないために。

だから。

おねがいします。せんぱい。





「葵ちゃんは、強い!」






あとがき


赤右京です。
夏コミ用に考えていたものですが、諸般の事情で載せませんでした。


どんな状況か、伝わりますでしょうか?

もし気に入ってくれたら、なんか感想ください。

ではでは。


     1999 8/17 赤右京


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