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想い出の迷路   第1章 休日


 まだ外は薄暗く、太陽が地平線からようやく離れるくらいの時刻に、 浩之は目覚めた。珍しく早起きだ。いつもなら、早く起きた自分に悪態 を突いて再度布団の中に潜り込むのだが、何故か今日は完全に眠気が去 ってしまった。
「よりにもよって、こんな日に...」

* * *

 今年もまた、その日はやってきた。
 いつも、その日が近づいたからと言って、俺はとりたてて慌てること なく、むしろ平然としている。世間も静かに、ごく当たり前の日常が展 開される。
 だが、当日になると駄目だ。俺は毎年その日だけは、仕事をサボり考 えにふける。考えても意味はないのだが、そうしないと悪いような、ま たはサボるための自分への良い言い訳として、結局それを繰り返してい る。
きっとどこかで、同じような思いを抱いて空を見上げてる奴がいるハ ズだ。そう考えると、少しは意味のある「儀式」だと思えてくる。
 でも、今年のその日は休日だった。

* * *

 何もすることのない、初冬の休日の早朝。日がなゴロゴロとしてよう かと思う。元々、毎年そうやってこの日は過ごしているのだ。世間で休 日に当たろうが、俺には関係無い。だが...

 保科智子

 智子の事を思うと、悪いことしてると思わざるを得ない。ひょっとす ると、俺より忙しいかもしれない彼女にとって、たまの休日に恋人と一 緒に過ごすのが、唯一の安らぎだろう。俺は、そんな彼女の思いを踏み にじっている・・・。
 しかし、彼女からはこの日は絶対に誘わない。
 智子は我慢してる。すごく。
喧嘩っ早く、短気に見られがちな智子だが、それは単に人並外れた照 れを源泉とするもので、その奥には大きな優しさが息づいている。人見 知りの激しさも災いして、第一印象も大体悪い。それを克服した者だけ が、彼女の真の優しさと、強さに触れることができる。
 そして、その優しさと強さゆえに言い出せないことがある。
「俺も往生際が悪い...かな。それもちょっとニュアンスが違うか 。」
 自嘲しながら、自身のとった行動を分析する。自分がひどくつまらな い奴に思える瞬間。
 彼女は、あの日のいきさつをすべて知っているからこそ、なおさら優 しい。しかし、いつかはどうにかしなきゃならない問題に違いない。
「くそっ!今からでも、遅くはないっ!」
 やるなら今だ。もう考えてもしょうがないことじゃないか。自分を責 めるのは、やめよう。知ってるさ、思ってるほどには事件と俺の結びつ きは無いって事は。だから考えても、何も答えが出ないんだ。なら、今 やれる事をやったらいいじゃないか。幸い、今年の「あの日」は休日だ
「よしっ。」
 俺は勢いよく布団から飛び出すと、電話の前へと移動した。
 深呼吸する。横隔膜がはちきれんばかりに、大きく多きく息をする。
 そして、その一連の前準備が終わるや否や、受話器を取って智子の自宅 へと電話する。もたもたしてると、次から次へといらぬ事を考えそうな 自分が情けない。
 そこで、つとめて違う事を考えようとする。
(こんな朝早くに電話かけて、迷惑じゃないだろうか?智子怒るかな ?まぁ、怒ってくれた方がこの場合救われるんだけどね。)
 とにかく彼女の、あの女性にしてはちょっと低い、それでありながら よく通る声が聞きたかった。長い呼び出し音が、空しく早朝の部屋に響 く。暫時、沈黙が部屋を支配する。

ガチャッ。

「あ、もしもし智子、俺、浩之だけど...」
 こうと決めた以上、彼女に余計な事を考えさせたくない。できるだけ 明るく装って俺は喋りはじめようとしたのだが...

「...ぁ、ぁぁああああああああああほんだらあああぁぁぁぁぁっ !!!!」

 俺のもくろみは彼女の怒号によって、その目的達成せずに潰えた。続 いて繰り広げられた、怒号罵声の機関銃攻撃(神戸訛りバージョン)に 、俺が言い訳や弁解や嘘を挟む余地は無かった。俺にとって都合が良か ったのは、彼女がしばしば陥るパターンで、怒りがある程度に達すると 、関西弁が余計鋭さを増し、何を言ってるんだか俺にはわからないよう になる、まさにその状態になったからだ。

「つまりは...ぜぇぜぇ...うちが言いたいんは...はぁはぁ .....ど、どこの世界に...つ、疲れきって..たまのきゅ.. 休日に...ぜぇぜぇ...ぐっすり寝てる、そ、総合職の女を..朝 の7時に起こすアホがおんねぇぇん!!!☆♭≒⇔毫♂‰♀∞〆!! !」

 最後は言葉にすらならない怒りだ。息切れしながらもそこまで捲し立 てて、智子は不意に黙る。彼女がいかにも与えてくれた、そのタイミン グは逃す程、俺は愚かでも捻くれてもいない。
「すまんっ!俺が悪かった!許してくれっ!」
 こういう単刀直入な物言いに、智子は弱い。滅多な事では自分からは折 れない、よく言えば負けず嫌い、悪く言えば頑固な自分の性格への裏返 しだ。 少し余裕を感じた俺は、とどめを刺す。
「愛してる、智子。」

 こういった、恥ずかしい台詞はさすがに俺もちょっと照れる。鼻の頭 を掻かずには、言えない台詞だ。だが、発した俺以上に智子がうろたえ ているのは、受話器越しからでも明白だ。途端に声がうわずるあたりが
可愛い。
「あ、あ、あ、あほぉ。そない取ってつけたような一言を、う、うち が信じると思おてんのか?恥ずかしいやっちゃ、ホンマ。」
 きっと、智子は相手の恥ずかしい言葉を、まるで自分が発したみたい に感じるのだろう。
「悪いっ!ほんと、朝早くから済まん。反省してるよ、神様っ、女王 様っ、智子さまっ!」
「...もう、ええ。」
 ぽつり、智子の呟き。本当は聞こえているが、あえて聞こえてないふ りをする。何度からかっても飽きない男と、何度からかわれても怒る女 の図。
「え、なぁに?よく聞こえないな。もういっぺん...」
そして、怒声。
「せやからっ!!!もうっ、えぇいうとるんやぁぁぁぁぁっ!!!!

 完全にいつもの二人の会話が戻っていた。

  * * *

「...で、何の用事?短くまとめてくれんか。うち低血圧で機嫌悪 いから」
 一連の痴話ゲンカ(もっとも、一方が捲し立ててただけだが)のあと 、他愛の無い話がかわされ、俺は危うく本題を忘れるところだった。ま ぁ、それぐらい今までの流れが自然だったと言える。自ら機嫌が悪いと いうときは、逆に彼女が上機嫌なときなのだ。
 今ならいける。ナチュラルに、何のよどみも無く。ただ、休日を一緒 に過ごす事を提案するだけでいいんだ。何をする訳でもなく、二人で時 間を共有するだけでいいんだ。 たまらなく自堕落で、たまらなく 幸せな一日。
 それで全ては終わる。
 くだらない言い回しはやめよう。お望みどおり、簡潔に答えてやろう
「智子、今日さぁ...」

 RRRRRRR....RRRRRRR....

 規則正しく、それでいて時と場合によって幸運をもたらす音とも、ひ どく感に障る音ともとれる。この場合、後者に他ならず、俺と智子との 密月を断つことを意味する。俺の熱い思いは、こんなクソ早い朝のキャ ッチホンによって、早々と去っていった。 キャッチホンの音が聞 こえない、智子がいぶかしむ。
「どないしたん?今日がどうかしたん?」
 相変わらずの智子の口調に、ハッとする。平静な俺ならばここで電話 を切るのはまずいと思っただろうが、何分急なことで俺は余裕を失って いた。うっかり正直に言ってしまう。
「あぁ、キャッチだ。」
 本当はキャッチなど無視して、電話を続けるべきだった。どうせ、休 日の早朝。ろくな用事ではないに違いない。(自分の事は、当然棚の上 である)
「...えぇよ。そしたら、また後で。」
 素っ気無くそう言う智子。状況判断の甘い我が口を呪いながら、俺 はキャッチに切り替える。
「じゃ、また後でかけ直すから。」
「ん。」
 断腸の思いで、キャッチホンのボタンを押す。こうなると、また自然 な雰囲気を作るのは難しそうだ。ため息が、俺の周りを徘徊する。電話 相手を切り替えたものの、俺の注意はまったく俺の注意はキャッチホン の相手には向いていなかった。「もしもし」さえも言ってなかった。

「もしもし、藤田さんのお宅でしょうか?」
 ...大丈夫...なんとかなる...
「もしもし、ひょっとして藤田先輩ですか?あのぉ...。」
 ...この電話をすぐに切って...
「?先輩?先輩ですよね?わたし...」
 ...なんだ、簡単じゃないか...ちょっとしたきっかけだよ. ..
「......。」
 ...しかし、さっき何だか遠くで女の子の声がしたような...
「......。」
 ...あれっ?
「...すぅ...もしもし、藤田さんのお宅でしょうか!!!?

 本日、三度目のボイスクラッシュ。
 智子とは違い、普通より幾分高く、可愛らしいが抜群の声量を誇るそ の声で、俺は瞬時に現実へと引き戻された。そして、その間、俺は自分 の灰色の脳細胞からくだんのメゾソプラノの声の持主を検索してみた。
 なつかしい、すごくなつかしい。絶対知ってる声だ。
情景が思い浮かんだ。学校...神社...サンドバッグ...。そ う、サンドバッグの後ろで指示を出す俺。それに従い間断無くサンドバ ッグを叩き、蹴る小柄な少女。ショートカットが似合い、瞳を輝かせ、 ひたすら一所懸命な、あの娘は...
『もう一回、お願いします!先輩っ!』
「先輩っ!」
 過去の記憶と、現実がシンクロした。知ってるさ...、忘れる訳が ない...。様々な思いを交錯し合った。同じ目標に向かって突っ走っ た思い出もある。そして、今日11月19日を毎年、俺と同じくら い深い思いで迎えてきたことが予想される人物だ。
「藤田先輩...ですよね。ご無沙汰してます。」
 俺は声を絞り出すように、久しぶりにその固有名詞を発する。
「葵ちゃん...」



    続く

 


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