私の父親はいつも仕事に追われていて、子供の私に構ってくれることなんてなかった。
幼い頃からそんな私を支えてきてくれた姉さんは、最近例の気になる彼と両想いになったらしい。
最近、姉さんと私の間になにか深い溝ができた気がする。
なにかに打ち込むことで自分に自信をつけるために始めたエクストリーム。
いつの間にか、後輩である葵に抜かされていたことを知った時、心の中でなにかが弾けた。
何もかもが挫折へと陥っていく。
「前まではなんでもできる優秀な子だったのに……ああなってしまった今ではもうあの子はダメだ」
たまたま通りかかった父親の部屋からこんなことが聞こえた。
涙が止まらなかった。
Deep Black
火鳥泉行
『コンコン』
「綾香お嬢様、お食事をお持ちいたしましたぞ」
扉が開けられる。
こんな私でも唯一相手をしてくれるのが、執事の長瀬。
「綾香お嬢様……?」
「いらない…」
そんな人に対しても、最近は信じることを忘れてしまった。
「今はお腹減ってないの…」
「そんなことを申されて、もうまる2日なにも食べていないではないですか……そのようなことではお体に毒ですぞ…」
「いいから下げて長瀬……」
本当は言いたいのはこんなことじゃないのに…
「お嬢様…お悩みごとならどうかこの長瀬めにお話ください……きっとお役にたってみせますぞ…」
「もういいの……長瀬も義理で私に付き合うのも疲れたでしょ?…私のことはいいから…」
いつからこんな悲観に流され始めたんだろう…
「義理なんぞではありませんぞ…」
「………」
「私は義理なんぞで貴方の付き人をしているのではありません……それだけはご理解ください」
人を信じることを忘れてしまったら……人間もうお終いね……
「分かりました…食事の方はお下げします。ただ次持ってくるときはちゃんと食べてもらいますぞ」
次…また来るの……?
もう来なくていいのに……
もう誰の顔も見たくないのに……
できればこのまま死んでしまいたい……
私が死んだらみんな悲しんでくれるかなぁ……
悲しんでくれても…みんな時間が経つに連れて忘れていくんだ……
そうだ…いっそ自分から忘れられに行こう……
誰もいない場所に行くの……
そうしたらきっと………全てを忘れることができる……
気が付くと、私は家を出ていた。
手にはなにも持っていない。
かといって取りに帰ることもできない。
「どうしよう…」
辺りは真っ暗だった。
夜なんだからなんだけど…
いつも以上に、暗闇の色が濃く見える。
行くあてもなく、私は少し歩くことにした。
通学路の曲がり角を曲がってみる。
人一人いなくて、見えるのは暗闇の中に薄く浮かび上がる電灯の灯りだけ。
その灯りも、時折点滅していてどこか寂しい。
なんとなく、それが今の自分自身と共感を覚えた。
少し行ったところで、小さな公園が見えた。
無意識にそこに足を運ぶ。
入り口の所で、季節はずれの蟻が動き回っていた。
「あなたも……私と一緒……?」
かすれた声でつぶやいてみる。
蟻はそのまましばらく無造作に動き回ると、やがて巣穴のようなところに入って行ってしまった。
「……なぁんだ…ちゃんと帰る場所があったんだ……」
誰にでもなく、本当に自分一人になった私のつぶやきは、星も見えない寒空に溶けていってしまった。
キィ…キィ…と音を立てて、ブランコが揺れる。
冬の寒空に寝間着だけというのは言うまでもなく着足らずだ。
すべてを失ってしまった私には相応の状況かもしれない。
風がひとつ、音を立てて吹き抜いた。
ブルッと身体が震える。
もうどうなってもいい…………
このまま……この風に溶けてしまいたい………
生きることが辛い………
もうたくさん………
………誰かぁ……
………………誰か助けてよ………
………………………………私を…………
気が付くと、目の前にひとつの影が写っていた。
ゆっくりと顔を上げてみる。
「あ………」
思わず声が漏れた。
目の前に立っている一人の男の人。
見覚えのある顔。
今の私の姿を、一番見られたくない人………
「やっぱり綾香じゃねぇか!……なにやってんだよこんな所で………?」
「ひろ……ゆ…き……?」
浩之が……
浩之が私の前にいる………
「………こんなに寒いのに……なんて格好してんだ……?」
「…………」
言えない……
言えないよ………
こんなに惨めになった私の前になんで今頃現れるの……?
「おい………綾香…?」
「………ほっといて……」
そんな目で私を見るのはやめて………
早くどこかへ行ってしまってよ……
「ほっとけるかよ!………家まで送ってってやるから立てよ……な?」
「………いや…」
「……綾香………?」
あんな家、戻っても辛いだけ。
私を必要としてくれる人間なんか……一人もいない………
「……………」
「……………」
「………とりあえず…俺の家に来いよ………」
………?
なに言ってるの浩之……?
「………でも…あなたには姉さんが…」
「そんなこと関係あるか………いいからこれを着ろ」
そう言って彼は上着を脱いでこっちに渡してくれる。
暖かい。
彼のぬくもりが肌にしみてくる。
でも……あなたは私のものではないの………
熱いシャワーが私の身体を洗い流す。
浩之の家に着くまで、彼は私の手を握って離さなかった。
その暖かい感触を私は忘れていない。
でも彼にはいつもと違う手だったはず………
双子で姿形が似てるって言っても、彼にはその違いが分かっていたみたい。
「この手は違う」って彼の手が言っていたもの。
シャワーの音が雨みたいに聞こえる。
ずっと降り続けて、強く私に降りかかってくる。
「雨も………このくらい温かかったらいいのに………」
シャワーの蛇口を止める。
お湯と一緒に、雨の音も消えた。
少し、気分が楽になった。
シャワーから上がると、洗濯かごの上に着替えらしきものが置いてあった。
「綾香ぁ……とりあえずそれ、着ておけよ………」
洗面所を挟んだドアの向こうから、浩之の声が聞こえてきた。
とっても優しい心遣い………
「うん……ありがと浩之………」
少し微笑んでタオルに手をやる。
「……腹……減ってねぇか………?」
「………うん……減ってる」
「飯………用意しといたから………」
「…………ありがと…」
「気にすんなよ………」
私が服を着ている間、彼はずっとドアの向こうにいてくれた。
それが私を安心させてくれることを、まるで知っていたかのように。
簡素な食事を終え、私はソファーに座っていた。
横には浩之が座っている。
なにを話したらいいかわからない2人の間には沈黙が走り続けていた。
2人の足の少し先で、ストーブの火がわずかな音を立てて燃えている。
「…あのさ………」
しばらくして、浩之がゆっくりと口を開いた。
「なんであんな所にいたんだよ………」
「……………」
私は答えなかった。
答えることができなかった。
「………あの葵ちゃんに試合で負けた日以来ぜんぜん顔見なかったけど……どうしちまったんだよ………」
そう…あの日以来………
胸が締め付けられる。
「お前らしくもねぇ…………そんなことで落ち込むようなヤツじゃなかっただろ?」
そんなヤツなのよ私は………
今まで背伸びをしすぎてきたの………
本当は弱くて一人じゃなんにもできないような人間………
「……早く………元に戻れよな…………」
胸が痛い……
もうやめて………
「そしたらまた……先輩と3人でどこかに遊びに行こうぜ………」
やめてよ………
そんなこと聞きたくない………
お願いだから………
やめて…………………
「綾…」
「やめてよっ!!」
叫び声が辺りに響く。
顔を上げると、驚いた顔の浩之があった。
私は…………もう考えるのを止めた。
「……………抱いて………」
口から自然とこの言葉が出てきた。
「…………な…なに言って…」
「抱いてよ浩之…………今の私にはあなたしかいないの………」
ーThe End